1960年創業当時から、2010年 社長交代までの
コダマの歩みを中心にご紹介します。
児玉 昌弘 会長(左) ・ 会長夫人(右)
1960年、大阪・生野区の小さな町工場から始まったコダマ。装飾メッキの仕事で成長したものの、バブル崩壊と製造業の海外移転によって、会社は大きな転機を迎えました。
そこで決断したのが、装飾メッキから機能メッキへの転換です。現在のコダマにつながる技術と考え方が、どのように生まれたのか。創業者・児玉昌弘が、その歩みを振り返ります。
(動画インタビューは、2025年7月に当時のことを聞かせていただきました。)
創業の想い 【はじまりは「父のバフ研磨」から、母を幸せにしてやりたい】
1960年、19歳の私は父のバフ研磨加工の仕事を手伝うことから、ものづくりの道に入りました。当時の工場は集塵機もなく、粉塵が舞う厳しい環境で、「この仕事は自分には合わない」と感じた私は、現場ではなく営業を選び、自ら飛び込み営業で仕事を取ってくるようになりました。父と母が一生懸命働いている姿を見て、「いつかこの家業を大きくして、母を楽にしてやりたい」と思うようになりました。
生野区は、金属プレスや切削加工をはじめ、多くの町工場が集まるものづくりの街です。父も職人さんと二人で、金属製品のバフ研磨を営んでいました。父は腕のいい研磨職人でしたが、当時は集塵設備も十分ではなく、工場には粉塵が舞っていました。私は「この仕事は自分にはできない」と思い、研磨ではなく営業を担当することにしました。近所の工場を一軒一軒訪ね、自分で仕事を探してくる。私のものづくり人生は、職人ではなく営業から始まりました。
父や職人さんの仕事の休みは、月に2日でした。父は腕のいい職人でしたが、集金日になると、お客様からいただいたお金を持って遊びに行ってしまうような豪快な人でもありました。「このまま父に経営を任せていたら大変なことになる」そう思った私は、父より先にお客様のところへ集金に行ったこともあります。
【「メッキをやってみないか?」運命を変えた一言】
ある日、仕入先の社長から「メッキをやってみたらどうや」と声をかけられました。資金も設備もなかった私に、今では、考えられませんが、その社長は「設備はウチが買ってやる。月賦で返せばええ」と背中を押してくれました。こうして、生野区で「児玉鍍金工業所」を創業。装飾メッキから事業がスタートしました。私も「何となく、メッキ屋やったら、いいな」とその気になったのです。
当初はドアノブや水道の蛇口を美しくみせる装飾メッキを手がけていました。当時は、今みたいな光沢剤がなかったので、無光沢のニッケル加工をしてから、バフ研磨で外観を光らしていました。その後に光沢ニッケルの添加剤が出来たのを覚えています。
しばらくは、ニッケルクロムメッキ加工が主力事業でした。当時の職人さんの休みは、なんと、月に2日間だけです。毎日一生懸命に働きました。私は、近所の工場を見つけては、飛び込みの営業活動をしていました。ドアやフックやハンドルなどの建築金物を取り扱っている会社の情報を聞けば、訪問し飛び込み営業の日々を過ごし、少しずつお客様もついて紹介もしてもらえるようになりました。
【何とかします。勉強してやります!必死でつかんだ1970年の万博メダルの仕事】

1970年、大阪万博の公式メダルのメッキ加工を受注する機会に恵まれました。その後、大手自転車部品メーカー・シマノ様の変速ギヤのメッキ加工も受注。大量生産に対応するパールニッケルクロムメッキの自動搬送設備を導入し、コダマは装飾メッキの会社として大きく成長していきました。しかし、この「大量生産で成長する」という成功体験が、後に大きな転換を迫られる原因にもなりました。
【バブル崩壊で倒産の危機 装飾から機能メッキへ 藁をもつかむ思いで相談 翌月から売上が半分になった】
1990年代、バブル崩壊とメーカー各社の海外生産移転によって、主力だった自転車部品の仕事が減少しました。東南アジアと同じ価格でなければ国内では仕事を続けられない。価格競争を続ければ、いずれ会社は立ち行かなくなる。そう考え、自転車部品の装飾メッキから撤退することを決めました。
しかし、次に何をすればいいのか分かりません。藁にもすがる思いで相談したのが、大阪市工業研究所の榎本先生でした。「これからは、見た目を美しくするメッキだけではなく、導電性、耐摩耗性、耐食性などの機能を与えるメッキが必要になる」その言葉を信じ、錫メッキ、銀メッキ、硬質クロムなどの機能メッキへ転換することを決意しました。
それは簡単な決断ではありませんでした。中途半端に旧設備を残せば、結局これまでの仕事に戻ってしまう。そう考え、主力だったニッケルクロムメッキの自動設備を廃棄しました。翌月から、売上の約半分を占めていた仕事がなくなりました。資金も、設備も、機能メッキの十分な技術もない。ここから、コダマの本当の変革が始まりました。
先生の「これからは、メッキに導電性や耐摩耗性など機能が求められる金メッキ・銀メッキ・半田メッキ・錫メッキ(スズメッキ)・無電解ニッケル・硬質クロムなどの機能メッキが伸びます。とアドバイスを頂きました。」という言葉を信じ、錫メッキ・銀メッキ・半田メッキなどへ挑戦を開始しました。そこで、大きな決断をしました。装飾メッキから撤退し、設備も技術もお金もありませんが、機能メッキ加工に転換することを決断しました。
機能メッキが要望される製品は、耐食性、導電性、耐摩耗性など様々な特性をクリアする必要がありました。試作や少量多品種型も対応して、顧客評価、課題を解決し、量産加工のメッキ加工ができる会社に変わるということです。変わるには、工場の大量生産型の自動メッキ設備を廃棄しなくては、いけません。自動メッキ設備を廃棄し、お客様に事情を説明して周りました。そこから苦難の始まりでした。いきなり来月から売り上げの半分を占める得意先がなくなるんです。技術の習得や課題の解決など困難を極めました。
じっと我慢していても、じり貧で苦しいですが、変わることも毎月の赤字との闘い、資金繰りなど転換も相当の勇気がいりました。そして、自転車のギヤに変わるメッキの仕事を探していたところ、仏壇金具のブロンズメッキをやってくれるところを探していると言うお話を聞いて、ブロンズメッキを始めることにしました。ブロンズメッキとは、銅メッキ加工をして、後処理で硫化アンモニウムに浸漬して、硫化銅皮膜にして表面を手作業で磨いていました。
仏壇金具はブロンズメッキの他に金メッキの仕事もあり挑戦しましたが、当時の私の技術では出来なかったのを覚えています。金は薄くつけて、綺麗に仕上げる。そして単価を安くしないといけない。伝統工芸の京都や金沢のメッキ業者さんは上手で、負けてしまうのです。技術に感心したものです。経営状態は、まだまだ苦しい状況で、新しい技術や新しい仕事の受注先を模索する日々でした。
新しい製品や難しい課題でもあきらめず、小さなサンプルをメッキ加工していくことにより、きっと新分野や機能メッキの量産に繋がるので、是非、機能メッキに挑戦されたらどうでしょう」というアドバイスを頂きました。もう榎本先生の言葉を信じるしか選ぶ道はありませんでした。「決断するなら、今しかない!装飾メッキをやめて、機能メッキの会社に生まれ変わる」と決断をいたしました。
そこから「メッキで機能を創造する」という言葉を社内に掲げ「本気でやろう!」と決意しました。やるからには中途半端はいけない。当社のような小さな町工場では余分な場所などありません。このまま自動機のニッケルクロムメッキのラインを残していたら結局は中途半端な改革で終わると思いました。だから主力の自動機をすべて廃棄しました。
【第一歩:錫メッキ(スズメッキ)で新たな柱を】
最初のヒットは「建築用ドリルネジ」の錫メッキ加工。摺動性の改善という難題に挑み、試行錯誤の末、量産化に成功。この案件が、機能メッキ分野の基盤を築く第一歩となりました。
しかしニッケルクロムメッキしか行ったこともなく、機能メッキのことは右も左もわかりません。榎本先生から「手始めに錫メッキ(スズメッキ)、半田メッキ、銀メッキを取り組めばどうでしょう。」というアドバイスを信じ、錫メッキ加工の試作をはじめました。
変革、設備・仕事の転換は10年かかりました。錫メッキ(スズメッキ)加工の試作を始めてしばらくすると、知り合いから錫メッキで困っているので相談したい。と依頼がありました。建築用のドリルネジで、打ち込み時のスピード(潤滑性を向上させたいとのこと、今現状のものでは打ち込み時にネジが焼きついて折れるトラブルがあるので解決してほしい。というものでした。
最初は単純に錫メッキ加工を行いましたが、ネジの打ち込みスピードが遅い。摺動性が全く合格しません。そこで試作を繰り返し、工程の変更と液組成を操作し合格することが出来たのです。このドリルネジは、スズメッキの売り上げの柱になっていきました。
まだまだ、売上も苦しい中、私は大学を卒業する長男を大手のメッキメーカーで修行させたいと思い、榎本先生に相談し、東京の株式会社三ツ矢さんでお世話になることになりました。技術の習得だけでなく、大きな会社の仕組みや社会での経験を味わせたかったからです。私も三ツ矢の草間社長にお礼に伺いましたが、社長は幅広い見識をもった人格者で息子もこの会社ならよき先輩、よき環境で鍛えられて、勉強になると確信しました。
一方工場の方は、転換のための資金集めに苦労していました。当時の工場は2度移転して、やっと買った100坪弱の小さな工場で、それ以外の資産はありません。ですが、なんとか工場を担保に1億円借りることが出来ました。その後は少しずつですが、小さなサンプル試作の話を頂いて、課題をクリアして、量産に繋げていくことができました。錫メッキの次は、硬質クロムメッキ、ガラクロムメッキの開発に成功し、徐々に設備の転換が可能になっていったのです。
【情報化の波に乗る:ホームページで営業革命】
2001年、ホームページを開設しました。しかし、会社案内や設備紹介を並べるだけでは、問い合わせはほとんどありませんでした。「お客様が知りたいのは、会社の説明ではなく、自分たちの困りごとを解決できるかどうかではないか」そう考え、メッキQ&A、技術情報、失敗事例、課題解決事例など、自社の技術やノウハウを発信するようになりました。それまで大阪近郊が中心だった取引は、Webを通じて全国へ広がっていきました。
今までの営業活動、新規開拓は、私が飛び込み営業するか、ネジ名鑑やプレス工業会の名簿を入手して、電話作戦をしていましたが、効率が悪く成果も出るのには時間がかかりました。精神的な疲労も大きい割には、効果が低いと感じていました。そこで息子からは、これからはホームページを充実させることで、お客様からご相談いただける営業スタイルに変えることを提案されました。東京から帰ってきた長男に新規営業開拓を任せました。長男は、従来の飛び込み営業や電話作戦のやり方は廃止し、ホームページで新規お客様を獲得する方法に注力するようになりました。
昔からメッキ屋は受託加工で、口をあけて待っていたら、お客様が仕事を持ってきてくれる。黙っていても、仕事があるのが普通でした。新規で飛び込み営業ですが営業活動をしているコダマは、頑張っている部類だと思います。しかし世の中が不況になり、受注が激減し待っているだけでは仕事がありません。新規の仕事を受注しなくては、必ずじり貧になる。
ホームページに営業マンの役割をさせたいと考え、日々自社の「強み」を見つけては、コンテンツに反映させていきました。お客様は何を求めているのか?「自社の技術でこだわった部分はどこか。特化した部分はどこか」メッキのQ&A、お困り事例、解決事例などを公開しました。
どんな小さな会社でも強みはあります。うちには優れた人や技術や設備は何もない。というのはありません。技術を評価するのはお客様なのです。自分で「たいした技術ではない」と思う技術がお客様にとってかけがえのない技術かもしれないのです。
足りないことはお金や技術や設備や人ではなく、情熱ではなかったのか。と考えました。商売のこと、技術のこと、こだわっていること、を社員からヒアリングし、文章にすることで、ホームページを通じて、多くの方に自分の思いが伝わり広がっていきました。
【品質と仕組みの整備:ISO取得への道】 コダマの品質管理の取組
それまでのコダマは、長年働く職人の経験と勘に大きく頼っていました。しかし、技術を次世代にどう残すのか、お客様から求められる品質記録や管理にどう対応するのかという課題が大きくなっていました。そこでISO9002の取得に挑戦しました。
製品の形状、重量、材質、処理条件など、それまで職人の頭の中にあったノウハウを作業標準へ落とし込み、品質を仕組みで守る会社へ変えていきました。ISO取得の最大の成果は認証そのものではありません。社員一人ひとりが役割と責任を持ち、自分で考えて仕事をする組織へ変わっていったことでした。
【理念の共有と新しい仲間】
2010年、私が会長に退き、長女が社長に就任。リーマンショックの影響で苦しい中、次世代が中心となって「理念経営」に取り組み、初の新卒採用を実施。「コダマ宣言」を策定し、全社員で共有する文化が根付きました。
事業承継と理念経営の開始 リーマンショックの際に、私が会長に退き、社長に長女が就任しました。世界中で多くの会社が倒産や売上げの激減、この期はコダマも大きな赤字に陥りました。これから厳しい船出をどう乗り越えていくか。長女は2人の弟と会議を持ちました。
「これからは3人で進んで行かなあかん。どうやって生き残るか。良い会社、元気な会社の共通点はどこか?」そんなことを話し合いました。良い会社、元気な会社は、共通の価値観、方向性をもって、力を合わせている。人材採用・育成に力を入れて、社員が輝いている。経営理念やクレドというものがある。ということがわかりました。
だから、私たちもコダマの経営理念を作って、その実践を共にやってくれる若い人材が必要だと感じました。これからは、ベテラン、中堅と協力し、新しい変革を実施する若い人材と一緒に進んでいかないとダメではないか。そんなことを話し合いました。そこから生まれたのが経営理念 「コダマ宣言」です。2010年 初めての新卒採用で5名の大学生を採用することが出来ました。今では、毎年新卒採用で多くの学生さんが入社してくださり、各課のリーダーとして育ってくれています。
コダマ宣言の冒頭ではこう語っています。
『コダマ宣言は私たちの基本理念であり、行動の指針となるものです。私たちはこれを共有し実行することによって幸せを創造します。』毎朝の朝礼で理念の唱和や全体会議では理念の勉強会を行っています。今は社内全体が家族のような温もりに満ちています。まさに全社員がコダマファミリーです。これからも、メッキ技術を通じて、世界中の人がより快適に生活できる夢の社会の実現に向けて、少しでも貢献したいと考えています。
創業の想いは、現在のコダマへ
父のバフ研磨を手伝うところから始まったコダマは、装飾メッキで成長し、時代の変化によって大きな危機を経験しました。そこで私たちが選んだのは、価格競争を続けることではなく、「メッキで機能を創造する会社」へ生まれ変わることでした。
売上の半分を占める仕事から撤退し、自動設備を廃棄し、工場を担保に資金を借りながら、錫メッキ、硬質クロム、銀メッキ、金メッキなど、一つひとつ技術を積み重ねてきました。当時、小さなサンプルから始めた機能メッキへの挑戦は、現在では車載、半導体、電力、防衛装備品、産業機械など、品質要求の高い分野を支える技術へとつながっています。
時代が変われば、お客様がメッキに求めるものも変わります。しかし、「難しいからできない」ではなく、まず挑戦してみる。お客様の困りごとに向き合い、技術で解決する。その姿勢は、創業当時から今も変わっていません。これからもコダマは、人を育て、技術を磨き、「メッキで機能を創造する」会社として、日本のものづくりを支えてまいります。
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